2005年7月9日(土)、午後4時からNPO歴史文化交流フォーラム(IF)例会が催された。報告者は飯田市歴史研究所研究員の鬼塚博氏、テーマは『日露戦争と地域社会の組織化』。日露戦争百周年を記念し、昨年から今年にかけて多数の関連図書が出版され、講演やシンポジウムがもたれ、あるいはジャーナリズムを賑わせてきた。総じて玉石混交の感は免れないが、客観的に見て、今回の月例会は特記されるべき性格のものだったろう。講師の地域に根ざした地道な研究と、アメリカのアカデミズムを経験した世界史的な知見が見事にとけあった分かりやすい話だったからである。
話は4部に別れ、第1部「飯田下伊那地域の特徴」では、現在18万弱の人口を擁する当地はかつて養蚕が盛んだったこと、しかし昭和恐慌後は衰退し、旧満州にもっとも多くの移民を送り出したことが述べられた。
第2部「日露戦争前の地域社会の状態」、第3部「地域社会の日露戦時体制」、第4部「日露戦後の地域社会」が当日の主題であり、鬼塚氏は詳細に、史実を援用して話を展開された。
日露戦争時にはわずか5千人強だったこの村上郷村から、116人が召集され12人が戦死したという。こうした国事をエピソードにはさみ、飯田下伊那地域の財政、行政(兵事、勧業、衛生、納税、教育)の面から地域社会の変化を具体的に説明してゆく。そこから窺われる注目すべきことは、日露戦争を契機に民衆の中へナショナリズムが浸透していったことだった。出征兵士の送迎、正月の国旗掲揚、賀状や年始の挨拶廃止などから、為政者がいかに国家意識を発揚強化していったか、村民の生活から明らかに見てとれる。それは納税観念や生産力の向上にも影響し、このとき本格的に行政村が機能し始めた。
鬼塚氏は第5部の「結語」で言っている。ふつう行政村が本来の機能を開始するのは、日清戦争後の産業革命時とされてきた。しかし当該地に関して上に見られたごとく、日清戦争期すでに行政村は有効に機能していたのであって、通説は一般化できないのではないか。つまり、日露戦争による村民生活の疲弊とナショナリズムの(操作的)高揚がこうした動員体制を容易に作り出したのである、と。このころ行政補助機関として納税組合、衛生組合あるいは産業督励部、産業組合が生まれる。5-10戸を単位とした組が組織され、青年会も誕生した。行政村関係者の数が増大し、中農層は積極的に村会議員となってゆく。ここ下伊那の地域社会は、日露戦争時にこうして行政村、部落、組というピラミッド型にきっちり組織化されたのだった。
興味深い鬼塚氏の熱演を拝聴して、われわれはさまざまなことを学び、深い感銘を受けた。
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